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「道元(曹洞宗)」

2020.11.25

画像は11月上旬の南禅寺三門からの眺めです。京都の秋も徐々に深まり始めているようですね。★曹洞宗の開祖道元は正治2年(1200年)に京都に生まれました。幼少の頃から学問を好み、非凡な才能を発揮していたと言われています。幼くして両親を亡くすという辛い少年時代を過ごしますが、13歳で自ら比叡山に入り14歳で得度。厳しい修行を経たのち、建仁寺で栄西の弟子「明全」に師事します。1223年には明全とともに宋に渡り、天童山如浄のもとで修行。「身心脱落」の語を聞いて得悟したとされています。これは肉体的にも精神的にもあらゆる計らいもこだわりも無くすのが禅の目的であるという教え。また、如浄から曹洞禅の「只管打坐」を受け継いでいます。「只管打坐」とは余念を捨て、ただ坐禅に打ち込むこと、坐禅をすることそのものが悟りの姿であるという教えです。道元はのちに京都に「興聖寺」を建立し「正法眼蔵」の執筆を始めました。1234年には越前国(福井県)の土豪の招きで都を離れ、そこに「大佛寺(永平寺/曹洞宗大本山)」を開いています。道元は建長5年(1253年)にその生涯を閉じるまで様々な教化活動や著作を続け、何事にもとらわれることなくひたすら坐禅することを説き続けたと言われています。★鎌倉時代には多くの新仏教の開祖が生まれました。末法の世とはいえ僅か十代の若さで出家、得度はよほどの覚悟が必要だったのではないでしょうか。苦難を乗り越えながらも法然、親鸞、日蓮、栄西、道元、一遍らが示した精神文化が800年後の今も受け継がれていることにはただ驚くばかりです。

「栄西(臨済宗)」

2020.11.15

立冬を迎えて、朝晩に吹く風は冷たく感じるようになりました。ただ、日中の気温は上昇して穏やかな秋晴れの日が多くなっているようですね。★臨済宗の宗祖栄西は1141年に岡山市にある吉備津神社の子として生まれ、13歳で比叡山に登り翌年得度。のちに栄西は形骸化しつつあった天台宗を再興すべく宋に渡ります。当時の南宋では禅(臨済)宗が繁栄しており、栄西は禅宗に天台宗を再興させる可能性を感じたと言われます。1187年に再び宋に渡り臨済宗の教えを会得して1191年に帰国。栄西の渡航はあくまでも「乱れていた天台宗の再興」が目的であり、新しく宗派を立ち上げようという意図はなかったと言われますが比叡山は異端として栄西を弾圧しました。苦境に立たされた栄西は天台宗などの旧仏教を否定するつもりが無かったことを弁明するため、1198年に「興禅護国論」という本を書きます。しかし、栄西の考えが比叡山に受け入れられることはありませんでした。のちに栄西は幕府の援助を受けて京都に天台、密教、禅の三宗兼学の道場として建仁寺を建立します。以後は武士たちの間で臨済宗ブームが起こり大きく発展することになります。★画像は京都にある臨済宗南禅寺の三門です。楼上からは京都の美しい町が一望できるようになっており、有名な歌舞伎狂言の「絶景かな 絶景かな」というセリフ通りの景色を眺めることができます。

「日蓮(日蓮宗)」

2020.11.04

11月になってからは日ごとに冷気が加わっているように感じます。紅葉の見頃も間もなくですね。★日蓮は1222年、千葉県房総半島にある漁村で誕生し、12歳で地元の天台宗の清澄寺に入り16歳で得度しています。「末法の世」は民衆の不安が増大した時代とされていますが、僅か十代半ばの若さで純粋に真実を見極めようとしたのでしょうか。その後、比叡山、高野山などでの研鑽を経て、1252年には日蓮宗の開宗を宣言。日蓮は「法華経」を教えの根本に置き、「来世」での救済を目指した専修念仏に対し「現世」での救済を説きました。のちに幕府のある鎌倉に出て松葉谷に草庵を結び、1260年には代表著作である「立正安国論」を書いています。しかし幕府の弾圧を受け、1261年には伊豆に流罪。鎌倉仏教は言わば「新仏教」であり、それまでの仏教と対立する立場をとることから迫害や弾圧を受けることになりますが、とりわけ日蓮の生涯は苦難に満ちたものだったようです。流罪を許された後も数々の法難に遭い、1271年には再び佐渡に流罪となりました。のちに日蓮は鎌倉を退去して身延山(山梨県身延町)に入山、1282年に60歳で他界するまで自らの信念を貫き通したと言われます。日蓮が入滅したあとも弟子たちが教えを広め、室町時代には京都町衆の半数以上が日蓮の教えに帰依するほど発展したとされています。★明日までは穏やかな秋晴れになりそうですね。/勝手ながら11月5日(木)は社員研修のため臨時休業とさせて頂きます。

「親鸞(浄土真宗)」

2020.10.25

早いもので、今年も残すところ2ヶ月余り。朝晩の冷え込みは凛とした空気に変わってきました。木々も色づいて秋の風情ですね。★浄土真宗の宗祖である親鸞は1173年に京都で生まれますが、幼少の頃に父親を、8歳の時には母親を失います。そして翌年、わずか9歳で出家。9歳といえば今なら小学3年生、どのような心境だったのでしょうか。悲しい境遇や時代背景の違いがあるとはいえ、揺るぎない覚悟のほどが伝わります。出家後は比叡山で20年に及ぶ修行に没頭し、29歳で京に戻り法然と運命的な出会いを果たします。その後、法然の「専修念仏」の教えに触れて入門を決意。しかし、後鳥羽上皇により「専修念仏」は禁止、法然、親鸞らは僧籍を剥奪され、それぞれ流罪となっています。親鸞は流罪を許された後も越後(新潟県)や東国(関東)で阿弥陀の本願を信じることで救われる「他力本願」を説きました。1231年には再び京に戻り、のちに浄土真宗の根本聖典となる「教行信証」を著しています。1263年、90歳で往生。室町時代になると中興の祖と称される蓮如の活動により、真宗の教えは広く知られるようになります。江戸時代には「浄土真宗本願寺派」と「真宗大谷派」とに分離。現在は西本願寺の「御影堂」、東本願寺(真宗本廟)の「教行信証」などが国宝に指定されており、京都観光の名所にもなっています。★先週は不安定な天候でしたが、今週半ばまでは好天に恵まれる予報が出ていますね。